もしもの時も、いつもの時も。あなたに寄り添う佐久市の地域医療
こんにちはプラザ佐久です。
長野県東部に位置する佐久市は全国の医療関係者から「地域医療の聖地」と呼ばれているそうです。
大病を患ったときや、不慮の事故に遭ったときの高度な救命救急医療(もしもの時)。
日々の体調管理や、病気を未然に防ぐための予防医療(いつもの時)。
さらに、夜中や休日に子どもが突然体調を崩したときの迅速な小児救急医療。
佐久市には、これら全ての医療が奇跡的なバランスで暮らしに溶け込む、医療体制があります。
なぜ佐久市は、これほどまでに手厚く、全世代に温かい医療の街になったのでしょうか?
その背景には、戦後の混乱期から「命の平等」を信じて駆け抜けた医師たちの情熱と、地域住民が二人三脚で歩んできた感動的な歴史がありました。
今回は、シニアから子どもまで、誰もが安心して暮らせる街・佐久市が誇る、地域医療の歩みと現代の魅力に迫ります。
佐久市は地域医療発祥の地
長野県佐久市が「地域医療発祥の地」として全国から手本とされるのには、確かな理由があります。
その原点は、戦後の混乱期にそれまでの医療の常識を覆した、この地ならではの画期的な仕組みにありました。
当時生まれた「住民に寄り添う」という精神は令和の現代にも脈々と受け継がれており、現在は佐久総合病院や佐久市立国保浅間総合病院を中心に、充実した在宅ケアや訪問看護体制が築かれています。
かつて日本の医療は、病気になった患者が病院へ行く「待つ医療」が当たり前だったそうです。
しかし、昭和20年代の農村部は非常に貧しく、人々は過酷な労働で体を壊しても「お金がない」「忙しい」という理由で、手遅れになるまで病院に行けなかったそうです。
そんな時代に、佐久総合病院に赴任した若月俊一医師らは、驚くべき行動に出ました。
- 病院から出向く「出張診療」(リヤカーや馬車で村々を回る)
- 病気を未然に防ぐ「予防医療」(日本初の全住民健康診断の実施)
- 分かりやすい「健康啓発」(病院職員による演劇で衛生の大切さを伝える)
病気になってから治すのではなく、住民の暮らしに寄り添い、病気にならない仕組みを地域みんなで作る。
この現代の地域医療や予防医学のベースとなる考え方と実践が、まさにここ佐久市から日本全国、そして世界へと広がっていったそうです。
佐久市の医療は、高度な「技術」の前に、まず目の前の人を見捨てないという「寄り添う心」から始まったのです。
「農民とともに」命の平等を追い求めた情熱の外科医
若月俊一(わかつき としかず)医師は日本の医療の常識を変えた「地域医療」と「予防医学」の偉大なる先駆者(パイオニア)で、徹底して弱い立場の人に寄り添い、ユーモアと情熱にあふれた行動力のリーダーだったそうです。
1. 「農民の中へ」飛び込んだ情熱家
若月医師は東京帝国大学(現在の東京大学)医学部を卒業した、いわゆる超エリートでした。
しかし、1945年にまだ誰も外科医がいなかった信州の閉鎖寸前だった佐久病院への赴任を選びます。
モットーは「人民の中へ(農民とともに)」
自ら住民と一緒に生活し、農民がどんな暮らしをして、なぜ病気になるのかを肌で理解しようとしたそうです。
2. 「食の平等」を重んじ、日本初の病院給食を開始
1947年、若月医師は戦後国内初となる本格的な「病院給食」を佐久病院で始めました。
当時は入院患者の食事は家族が用意して持ち込むのが当たり前でしたが、それだと貧しい家庭の患者は栄養のあるものが食べられません。
若月医師は「食の平等」を掲げ、病院で栄養のある食事を出す仕組みを作りました。
当時、地域では「佐久病院に行けば、若月の手術と銀シャリで病気が治る」と噂されたそうです。
3. 自ら20本以上の脚本を書いた「元・文学青年」
学生時代から哲学やプロレタリア文学(労働者の視点から描かれた文学)に深く傾倒していた文学青年でもあったそうです。
だからこそ、前述の「演劇による啓発活動」では、若月医師自らが20編を超える劇の脚本を執筆しています。
どうすれば難しい医学が楽しく伝わるか、ユーモアを交えて表現するクリエイティブな才能の持ち主だったそうです。
4. 物腰が柔らかで、人を巻き込む天才
若月医師は非常に物腰の柔らかい人柄で、周囲の医師、看護師、事務員、そして行政や住民たちを巻き込んでいくのが抜群に上手な人だったそうです。
彼のカリスマ性と温かい人柄に惹かれ、全国から志の高い医療従事者が佐久病院へと集まるようになり、わずか20床だった小さな病院は、1,000床を超える地域の中核病院へと成長していきました。
世界が認めた「民衆のための医師」
これらの地道で偉大な功績が認められ、1976年には「アジアのノーベル賞」と称されるマグサイサイ賞を受賞しました。
「訪問診療」と「全村健康管理」の開始
病院でじっと待つのではなく、困っている人の元へ自ら飛び込んでいく。
若月医師が実践した「寄り添う医療」の象徴が、「訪問診療(出張診療)」と「全村健康管理」でした。
当時の農村に大変革をもたらした、2つの大きな歩みをご紹介します。
① リヤカーで命を救いに行った「訪問診療」
当時は道も舗装されておらず、車もない時代です。若月医師や看護師たちは、医療器具をリヤカーや馬車に積み込み、険しい山道を越えて遠くの村々へ出向きました。
お寺や公民館に臨時の診察所を設け、寝たきりの高齢者や、忙しくて病院に行けない農民たちの家を一件ずつ回ったのです。この「こちらから出向く医療」こそが、現代の在宅医療や訪問看護の原点となりました。
② 日本初の挑戦「全村健康管理」
1959年(昭和34年)、現在の佐久穂町にあたる八千穂村で、日本で初めての試みがスタートします。
それが、村の住民全員を対象にした「全村健康管理(集団検診)」です。
「病気になってから病院へ行く」という常識をひっくり返し、「病気になる前に見つけて予防する」という、今では当たり前となった健康診断の仕組みを全国に先駆けて作り上げました。
病気になる前に予防するという概念を根付かせた
かつての日本の医療は、「病気になってから治す」のが当たり前でした。しかし若月医師は、「病気になる前に防ぐことこそが、本当に住民を幸せにする」と考えました。
これが、佐久市に息づく「予防医療」の原点です。
象徴的なのが、1959年に始まった日本初の住民健診(全村健康管理)でした。それまで「元気なのに検査をするなんて」と驚いていた農民たちも、検査によって脳卒中や胃がんの早期発見が次々とつながるのを見て、健康に対する意識をガラリと変えたといいます。
「不調を感じてからでは遅い。日頃から自分の体をチェックすることが、家族と自分を守るのだ」という意識が、佐久の地に深く根付いた瞬間だったのでしょう。
「予防は治療に勝る」を伝える文化活動
この「予防医療」の大切さを住民に広く伝えるために、若月医師たちが展開したのが、他にはないユニークな「文化活動」でした。
その代表が、病院職員による「演劇(劇団さくま)」です。
難しい医学書を読むよりも、ステージの上で繰り広げられる笑いあり涙ありのお芝居を見るほうが、はるかに住民の心に響いたのだそうです。
「泥だらけの手でご飯を食べるとどうなるか」「農薬の毒からどう身を守るか」といったテーマを、劇を通じておもしろおかしく、かつリアルに伝えたそうです。
さらに、劇だけでなく「有線放送」を使った健康ラジオ講座や、「スライド上映会」、住民が作った健康にまつわる「短歌や俳句のコンクール」など、ありとあらゆる文化的アプローチを行いました。
「こうしなさい」と命令するのではなく、住民が楽しみながら自然に学べる工夫を凝らしたそうです。
こうした温かい文化活動のおかげで、佐久市には「予防は治療に勝る」という教えが、知識としてではなく、暮らしの文化として深く浸透していったそうです。
「農村医学」という分野の確立
若月医師が残した最大の学術的な功績、それが「農村医学」という新しい医学分野の確立です。
それまでの医学は、主に都会の大学病院を中心に発展し、「病気そのもの」を研究する傾向があったそうです。
しかし若月医師は、「病気を治すには、その人がどんな環境で働いているか(労働環境)を知らなければならない」と考えました。
農村医学の確立へとつながった、独自の視点をご紹介します。
① 農家に特有の持病「農夫症(のうふしょう)」の発見
若月医師は、佐久の農民たちを診察する中で、多くの人が共通して「激しい腰痛」「手のしびれや腱鞘炎」「肩こり」「不眠」などに悩まされていることに気づいたそうです。
これらは単なる怠けでも加齢のせいでもなく、過酷な農業労働(中腰での長時間の作業や寒冷地での重労働)が原因で起こる職業病であると突き止め、これを「農夫症」と名付けました。
② 農薬中毒への警告と安全対策
昭和30年代、農業の効率化に伴い農薬が大量に使われるようになりましたが、当時はマスクもせず素手で扱うのが一般的でした。その結果、多くの農民が頭痛やめまいに苦しむ「農薬中毒」に陥っていたそうです。
若月医師らは、農薬が人体に及ぼす影響を科学的に実証し、「防護マスクや手袋を着用すること」を強く指導。これが、全国の農作業の安全基準を作るきっかけとなったそうです。
③ 日本から世界へ、「日本農村医学会」の発足
若月医師の呼びかけにより、1952年(昭和27年)に「日本農村医学会」が設立され、その事務局は佐久総合病院内に置かれました。
この研究は日本国内にとどまらず、のちに「国際農村医学会」へと発展し、
東南アジアなど、世界の農業国における医療活動にも多大な影響を与えることになったそうです。
労働と健康を守る、優しい医学
「病気を診るだけでなく、人間を診る。そしてその人の生活を診る」。
農村医学という学問の誕生は、ただ薬を出すだけでなく、農民たちの過酷な働き方そのものを変えようとした、若月医師たちの温かい闘いの結晶だったのです。
現代に引き継がれる佐久モデルと安心の医療ネットワーク
若月医師たちが築いた「一人の患者も見捨てない」「病気になる前に防ぐ」という精神は、時代を超え、現代の佐久市に素晴らしい医療ネットワークとして受け継がれています。
現在も佐久市は佐久総合病院や佐久市立国保浅間総合病院を中心に、充実した在宅ケアや訪問看護体制が整っています。
その象徴が、「佐久総合病院(本院)」と2014年に開院した「佐久医療センター」の見事な役割分担です。
「もしもの時」を支える:佐久医療センター
一刻を争う重症や、専門的な手術を行う「高度急性期(完全紹介制)」
救急車で運ばれるような大怪我や、脳卒中・心臓病といった一刻を争う大病、専門的な手術が必要なとき(もしもの時)に機能するのが「佐久医療センター」です。
最新の医療機器を備え、24時間体制の救命救急センターや、がん治療、お産を支える周産期母子医療センターなど、広域の高度・専門医療を一手に引き受けています。

「いつもの時」を温かく見守る:佐久総合病院(本院)
地域密着で、日常の病気から在宅医療までを診る「地域包括ケア(紹介・予約優先)」
一方で、地域の人々の暮らしに寄り添い、日々の健康を支える(いつもの時)役割を担っているのが、歴史ある臼田の「佐久総合病院(本院)」です。
高度な救急医療に特化した佐久医療センターと役割を分担し、本院では地域のクリニック(かかりつけ医)と連携しながら、慢性期の治療や日常的な外来診療を行っています。さらに、若月医師の原点でもある在宅医療や訪問看護、介護との連携、そして人間ドックをはじめとする予防医療まで、地域密着の多機能病院として私たちの暮らしを温かく支えています。

街のかかりつけ医とつなぐ「切れ目のない医療」
佐久医療センターは原則として「紹介型・予約制」の病院です。
普段は「地域のかかりつけ医(近くのクリニック)」や「佐久総合病院(本院)」に診てもらい、より詳しい検査や入院が必要になったときに、スムーズにセンターへとバトンが渡される仕組みになっています。
症状が落ち着けば、また、いつものかかりつけ医の元へと戻り、ケアを続けます。
子育て世代を支える小児医療と「教えて!ドクター」
現代に形を変えた「暮らしに届く、やさしい医学」
佐久市が誇る「寄り添う医療」の精神は、シニア層の健康長寿だけでなく、未来を担う子どもたちや子育て世代にも手厚く受け継がれています。
今や佐久市から全国のパパ・パパへと広がっている素晴らしいプロジェクトが、無料アプリ「教えて!ドクター」です。

「夜中に子どもが突然熱を出した」「おもちゃを誤飲したかもしれない」……子育て中の「もしもの時」、親は激しい不安に襲われます。
そんなとき、スマホで子どもの症状を選ぶだけで「今すぐ救急車を呼ぶべきか」「翌朝の受診で大丈夫か」「お家でできるケア」がパッと一目でわかるのが、このアプリです。
実はこれ、佐久総合病院の小児科医や地域医療部が中心となって開発したものだそうです。かつて若月医師たちが、難しい医学を分かりやすく伝えるために「演劇」を創ったように、現代の医師たちが「スマホ」という道具を使って、悩める親の心にそっと寄り添っているのです。
地域一丸で守る小児救急体制
さらに、アプリで「今すぐ病院へ」と判断された「もしもの時」のバックアップ体制も万全です。
夜間や一刻を争う重症時の最後の砦として佐久医療センターが24時間体制で対応しているのはもちろんですが、佐久市の小児医療はそれだけではありません。
日曜日や祝日といった休日の昼間の小児初期救急(急病診療)においては、市営の浅間総合病院が「佐久地域休日小児科急病診療センター」を開設し、大きな役割を果たしています。
多くのクリニックが休診になる休日のピンチを浅間総合病院が最前線で支え、重症時には佐久医療センターへとスムーズにバトンを繋ぐ。
この、共同ネットワークがあるからこそ、佐久市の小児医療にはいつでも揺るぎない安心感があります。
専門の医師や看護師がタッグを組んで守ってくれる医療体制(ハード面)と、日々の不安をスマホで解消してくれる仕組み(ソフト面)。
この両方が揃っているからこそ、佐久市は子育て世代にとっても「安心感を持って暮らせる街」となっています。
かつて若月医師が、病気や不安に怯える農民たちの元へ自ら出向き、その暮らしに生涯を捧げて寄り添ったように。
その「ひとりを置き去りにしない」という温かい情熱は、形を変え、時代を越えて、現代の小児医療の現場にも脈々と受け継がれています。
シニア世代の健康長寿から、未来を担う子どもたちの笑顔まで。街全体がひとつの大きな家族のように命を支え合う佐久市の地域医療は、これからもこの地に暮らす人々の安心を、どこまでも優しく守り続けていくことでしょう。
関連外部サイト
佐久の偉人【若月 俊一】
JA長野厚生連 佐久総合病院
教えてドクター
